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その10 高校を休学ではなく、退学願いにした孫少年

 この連載「ソフトバンク 孫正義」物語は、ソフトバンクが今日に至るまでに、どういうことがあったのかという出来事を単に羅列して見ていただくことを目的にしているものではありません。
 「はじめに」の欄でもお伝えしましたように、孫氏の生き様を見ていく過程の中で、逆境に遭遇している人たちには奮い立たせてくれるエネルギーを、迷っている人たちには的確なヒントを、そしてまた道半ばの人たちにはその背中を押す力の源泉などを汲み取っていただき、皆様方の日常の問題を乗り越える糧として、また日々を通してその糧を世の中に大いにお役立てていただくことを目的にしているものです。
 したがって氏のことをヨイショするための連載ではもちろんなく、あくまでも今日のソフトバンクが出来上がるまでの過程の中で、孫氏の考え方や言動のキーポイントに焦点を当て、その決断に至るまでの背景を参考にしていただけるよう心掛けている旨、お伝えしておきたいと思います。

 さて、国籍の問題で日本における通常の就職は困難が伴うという暗い思いを胸に秘め、差別とか、国籍とか、人種問題とかでイジイジしているときに、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」で知ったそのスケールの大きい生き様に感化を受け“人生観が一気に変わった”という少年の言葉や、そしてその直後、今度はダメ押しする形で、短期間の研修旅行で直に見聞きした“他民族国家アメリカ社会の差別のない、世界で文明が最も発達した、一言でいうと輝いている国の自由闊達な生活スタイルに感動し、何か新しいものが生まれてくるとするとこの国ではないか、もっと深く知りたい、と、ますます引きつけられた”という言葉からもわかるとおり、そこでこの少年にすぐにでも留学したいという決意が生まれたとしても不思議ではありません。
 その結果、アメリカ研修を終わって帰国後、すぐに高校を退学という行動に出ます。

 そこまでは有名校への進学に備え、わざわざ一家で北九州市から博多に引っ越し、さらには家庭教師まで付けて塾通いもし、そしてめでたく久留米大学附設高校という難関高校に合格しました。
 この高校は、例年35~40番内に入っていれば確実に東大へ、そして60~80番にいれば国立の医学部にいけるという実績を持つ進学校であり、一学期、ここでの孫少年の成績は学年200人の生徒中30番。そのときの同級生だった38人が後に東大に受かっているのを見れば、当然、彼も東大へ行けたはずです。
 このような高校で、まさに1年生の1学期が終わったばかりのときに、突如、退学を申し出たのですから、校長先生をはじめ、各先生たちにとっては前代未聞の話であり、当然、引き止めにかかります。しかし、少年の決意は固く、次のように語っています。

【 入学したばかりなのに、退学とはどういうことなのか、と先生たちから強く反対された。校長先生も担任の先生も、アメリカに行くというのなら、せめて大学に行って、日本で大学を卒業してからでもいいじゃないかと。せめて、今どうしても行きたいというなら休学にして、1、2年、様子みて帰ってくる、それでどうだ、と。
 で、私は校長先生に言いました。先生!この高校には何の不満もない。だから不満があって退学するんじゃない。校長先生も、担任の先生も、友人も、皆すばらしいと思っている。だから嫌いで行くんじゃないんです。チャレンジのために行くのです。

 しかし私は弱い男です。アメリカに行っても、英語がようわからん。1人で行ってどんな生活になるかわからん。困難にぶちあたって、くじけ、後ろ向きの気持ちになるかもしれない。
 そこで、もしもその時に戻ってくる場所があれば、安易に走ってしまうことになります。それじゃ腹が据わらん。退路を断たないかぎり、決して苦難に立ち向かうことはできません。だから休学届けじゃなく、退学届けにさせてください 】と。

 また担任だった阿部逸郎先生は、そのときの様子をよく覚えていると次のように語っています。

  【 私が彼に、まず日本の大学を卒業してからでも遅くないんじゃないかと言うと、彼はこう言ったんです。“僕は韓国籍です。先生たちにはわからないでしょう。自分には日本では活躍できる場所はないんです。そしてまた、もうそんな時間はないんです。僕にはそんな時間は残されていないんです”と。
 さらに最後に、彼が言ったこと“でも日本人は、アメリカで勉強した人には弱いでしょ”という言葉は、今でも印象に残っています。とにかく思い直すよう何度も説得したが、少年の決意は固かった。落ち着きはらい、ひとつひとつ言葉を選んで話す彼に、逆に説得されました 】と。

 もちろん家族にとっても寝耳に水の仰天する話でした。当然、猛反対です。その上、父親が潰瘍で吐血し入院しているときだったからなおさらです。孫氏は言います。

 【 父の吐血は、突然、降って湧いたような家族の危機でした。家族の家計はどうなるのか、家はどうなるんだ。そのとき1歳年上の兄は高校の1年生でしたけど、高校を中退して、家計を支えることになりました。母ももちろん一生懸命仕事を続けていました。
 なんとしても這い上がらないといけないということです。では、どうやって這い上がるか。一時的な解決策ではその繰り返しになります。そうならないためには、中長期に家族を支えられる事業を興さねばならないと、私は腹をくくったんです。そこで事業家を志して、アメリカに行こう、アメリカに渡ろうと。
 このとき私は土佐藩を脱藩していく龍馬の心境でした。

 だから兄貴に“兄貴ありがとう。家族を支えてくれてありがとう。俺はアメリカに行ってきたい”と言うと、兄貴は“なんでや”と聞くわけです。
 そこで私が兄に言ったことは“兄貴、済まないけど今だけは家族を支えてほしい。我が家の近い将来の問題、それを支えるのは兄貴に頼りたい。だけど俺は遠い将来の家族と、そして遠い将来にもっと多くの苦しんでいる子ども達のために夢を与え、彼らを支えるためにも、俺はアメリカに行きたい。
 そして事業家になる何かの種を見つけてくる。そこで何かつかんで、日本に帰ってきて事業を興す。絶対に家族を支えてみせる” 】と。

 まず、ここの文言の背景でうかがわれるのは、少年が当面の問題を考えているのではなく、そのずっと先に目を据えて事業を興すことを考えているということです。さらにその事業で家族だけでなく、世の中の人のためにもなるような事業を!と考えていることです。
 では、家族や周りの受け止め方はどうだったのか。当然かもしれませんが、親戚関係からは非難の言葉を浴びせられたようで、少年は次のように語っています。

 【 親戚は私を悪者扱いでした。おじさんとかおばちゃんとか従兄弟からもこっぴどく言われました。“この恩知らず! 父親がいつ死ぬか分からない時に留学だと? 家族を捨てるのか、ろくでなし!”とか“お前はなんて冷たいヤツだ。父親が血を吐いて、生きるか死ぬかのところでさまよっているときに、その父を置いて、一人でアメリカに行くんか。お前のエゴのために行くんか”とか言われました。

 そこで私は彼らに向かって言ったのです。
“そんなんじゃない、家族を支えたいから行くんだと。そしてもう一つ、今まで自分が悩んできた国籍だとか、人種だとか、同じように悩んでいる人たちがいっぱいおる。俺は立派な事業家になって、孫正義の名前で、みんな人間は一緒だと証明してみせる。
 国籍なんちゅうのはただの紙きれだ。本当はどんなバックグラウンドであれ、みんな同じ人間だ。みんな1人の人間として尊いんだ。みんな同じ可能性、夢を実現できる可能性を持っているんだ。誰々が優れていて、何々国籍だと劣っている? そんなことはないんだということを、俺は絶対に証明してみせる。自分の人生をかけて証明をしてみせる” 】と。

 ここでももちろん、家族のことが念頭にありますが、やはりそれまで自分がず~っと苦しんできた人種差別、国籍の問題で同じ境遇に置かれている親戚のこと、そして同じ悩みを持つ他の多くの人たちを救えれば、との強い思いに心をくだいています。
 では、両親に対してはどうだったでしょうか。

【 家族の危機というそんな状況の中で、私が突然切り出したアメリカ留学の話です。当然、家族は反対でした。親にとって見知らぬアメリカは、想像もつかないはるか遠くの国で、一度行ったら、もう帰ってこないと思い込み、母などは毎日泣いて泣いて泣いて、行くなと。そんなわけのわからない怖いところに行くな、一度行ったら帰ってこれんようになる。絶対にやめなさい!と。
 そうして泣きながらしがみつくお袋に、私は言いました。

 “お袋、病院の先生に聞いたら、親父は死にはせん、と言うてる。血を吐いたけど、まだ大丈夫だと話していた。死にはせんと。ここ何年かの家庭のことを思えば、家にいて学校で勉強して、家族のために、それはそれで大事なことかもしれん。
 でも、これから何十年先のことを思ったら、家族のためにも、そして家族をさらに超えて、今後、自分が何かを成し遂げ、それに人生を捧げるためにも、アメリカで人生をかけることを見つけたい。そしてアメリカの大学を卒業したら、必ず日本に帰ってくるから”と母をなだめ約束したのです 】と。

 西洋、それは遠いところにある国としか映っていない母親にとって、そこへ子供1人で行くにはあまりにも危険過ぎる、さらに一度そんな遠いところに行ってしまえば、もう帰ってこないのではないか、という不安な思いが襲ってきたのは当然のことでしょう。
 さらに若干16歳の少年に、普通ならばまだ母親に甘える部分が残っていても不思議ではありません。しかし、中長期的な見方でもって冷静な判断をし、情実に流れ易い女親を、大学を卒業したら必ず帰ってくると諭したわけです。
 では、入院中の父親はどうだったか。

 もちろん父親としては,少年にそばにいてほしかったのが本音でしょう。しかし少年が幼少のころから、お前は天才だと言い続け、有名高校に進学させるために、わざわざ一家の引っ越しまでして少年の将来に期待を寄せていた父親です。
 さらに日頃の少年の言動から、理路整然とした考えを元にして言い出したことは必ず実行する少年であると認識していた父親です。

 ここで私筆者の私見を少々述べます。私がこの連載を進めている中で、少年の理路整然とした「ものの見方・考え方」を最初に感じたのは、成績の悪さでもって少年が森田塾への入塾を断られときのことです。
それを感じたのは、少年、母親そして館長を知る友人の母親と3人で、森田館長を再度訪ねたときに少年が館長に言った内容の言葉にです。
「自分はこれまで友人との時間を何よりも優先させてきた。一緒に遊ぶ時間を大切にしたからこそ今は成績がよくない。しかしあなたは、これから勉強に全力投球しようという人間を、過去の成績で判断し、その機会を奪うのか。納得できない」との言葉。 森田館長もこれには反論する余地もなかったと思います。
このような場面はこのあとでも、しばしば見られますので、順次ご紹介してまいります。

 さて、そこで少年の留学話を聞いた父親は、いろいろ考えた末、次のような結論に至ったのでした。
 「正義は、普段、家ではどちらかというとおとなしい子だった。だけど一度言ったことは必ず実行する子だった。何かを言い出す時はすでに決心が固まっていて、自分の説を曲げることはなかった。
 反対すればするほど自分の考えを貫き通す。だから、この子は反対してもだめだ。ここで彼の言っている将来、その芽を摘んではいけない。行かせることにしようと。」
 結局、入院中の父親が一家を代表する形で、アメリカ行きを後押し、最終的には家族と親戚が、そろって最小限の学費と生活費を支援してくれることになったのです。

 さて前述したように、少年が兄貴にお願いするところで“土佐藩を脱藩していく龍馬の心境でした”と語っていました。
 後にNHKの大河ドラマ「龍馬伝」が放映された折、龍馬の脱藩により土佐の国に迷惑がかかるかもしれないという中で、龍馬の姉・坂本乙女が「龍馬、行ってこい。おまえは土佐に納まりきれる男じゃなか、もっとなにやらでっかいことをやる、そのためなら自分のことはかまわん。行って来い!」と龍馬を送り出すあのシーンでは、 “ちょうど自分の留学という人生と重なって、思わず涙がボロボロと出てきました”と言っています。

 この龍馬の脱藩は26歳のとき。一方、孫少年が残された時間がないとして、入学したばかりの高校の1年1学期で退学届けを出し、アメリカ留学を志したのは、その龍馬よりも10年も早い16歳のときです。
 皆さんの16歳のときはどうでしたか。

 孫少年のなんとも凄まじい決断力ですが、当巻頭でも見ていただいたように、龍馬の生き様と研修旅行で体験した差別のない自由闊達なアメリカの生活スタイルが、この少年に大きなインパクトを与えたことは間違いありません。
 こうして5ヵ月の渡航準備のあと、1974年2月アメリカに向け出発するのですが、また先方の高校で、孫少年ならではの破天荒なことをやってのけるです。

(連載・第十回完 以下次回につづく)


執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)

テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)

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