その7 人の力を借りて大きなことを成す
250個の各発明項目の中から、最終的に1つに絞ったのが多国語間音声翻訳機でした。その絞り方は発明項目とその実現に必要な条件をマトリックスにして、各条件ごとに困難度という指数数値を割り当て、その合計数値で判別したと孫氏は言っていますが、最初、これら項目を案出するに際しても、ただむやみに挙げていったわけではなく、そこにはロジックがありました。
“松下幸之助氏も小さな発明をもとに会社を興した。自分にもできないはずはない。必ずできる”として、孫氏は効率性を高めるために3つの接近法を使ったと言っています。
一つ目は、周辺の問題を解決できる答えを見つける。 二つ目は、大きなものを小さなものに、丸いものを四角いものに変えるというような変換を試みる。 三つ目は、既存のものを新しく組み合わせてみる、というものです。
つまり、最初は大きな枠組みを設定し、次にその枠組みの中で候補案を挙げていく。そして最後は前述のマトリックスの条件で目的に合うものを絞っていくという方法です。
たくさんの候補案があるときに使うこの方法は、以降、氏のビジネス展開の過程で随所に見られるもので、今後も適宜見ていきますが、皆さんにも大いに参考になるのではないでしょうか。
さて、多国語間音声翻訳機の開発といっても、氏自身はまったくの門外漢で、技術はおろか、知識すらありませんでした。
では、氏はどうしたのか。氏は語ります。
【 目指す開発は「多国語間音声翻訳機」。調べてみると自然言語翻訳というのは非常に難しいため、辞書機能プラスアルファのものをめざさねばなりませんでした。
そして声も伴う。これには辞書とスピーチ・シンセサイザーと電卓の三つの組合せが必要となります。
ところが当時、そんな最先端のスピーチ・シンセサイザーを使った製品など世の中のどこにもありませんでした。これをいちから研究・勉強して、自分だけでやろうとしても、5年、10年、あるいはできあがらないかもしれない。
だから、人材を集めてチームを作り、しかもメンバーはすべて一流の研究者にしようと思ったのです。
そこで、大学の教授や研究者専用の電話帳を片っ端からめくって、マイクロ・コンピューターの第一人者は誰か、ソフトウェアの優れた人物は誰か、と調べていき、宇宙科学や原子力科学研究所の教授、研究員などにも的を絞っていったのです。
ラッキーなことに、自分の大学の物理学科にワンチップコンピューターによるスピーチ・シンセサイザー分野で、世界初の実用化に成功した音声発信技術の権威者・フォレスト・モーザー博士がいました。
だからこの教授をキーパーソンとしてまず説得し、それを信用の突破口にして、他の一流メンバーを募ろうという作戦を立てたのです 】と。
このチーム作りの過程に見られる氏の戦略もまた見事です。まず必要な技術分野を決め、次に各分野における専門家を選出するというステップですが、おわかりのように、留学生の氏にとって、この抽出する専門家の中に友人や知人などは当然いなくて、全員が赤の他人という、氏の知らない人ばかりだということです。
そこで氏の使った手段は、研究者専用の電話帳というものでした。これはなかなか思いつかないものです。普通なら友人、知人のツテを頼って、となるものですが、それでは目指す各分野での優れた人物には到達できません。
そこで氏は電話帳を使ったわけですが、しかしたとえそこから優れた人物を調べ挙げたとしても、本来の業務意外に興味本位で仕事を引き受けてくれるような奇特な専門家などいるわけもなく、また万が一いたとしても、それに見合うような何らかの労働対価も考えねばなりません。しかし、学生の身である氏には、少なくともお金などの持ち合わせは皆無です。
こんな状態で、彼らをどう説得しようというのか。氏は、まずモーザー博士を説得し、次にその信用をベースにして、残りの研究者をメンバーに引き込むという作戦だと言っています。
でも依然として問題は残ったままです。まず、博士にタダ働きの説得が必要になるからです。では、どうするのか。
ここでも、氏特有の商才と説得力が発揮されます。氏は語ります。
【 こうして専門家チームの候補者に目星を付けてから、翻訳機の概念を綿密にまとめ、1つのフローチャートを持って、モーゼー研究室のドアを叩きました。そして私は博士に向かって、“先生、私を少し助けてください。私は経済学徒なので、エンジニアリングの知識が足りません。しかし、いいアイデアがあります。私のためにチームを組んでこの製品を作ってください”と切り出しました。
モーザー教授は、無精ヒゲの怪しげな東洋人の訪問に面くらう表情で私を見ていましたが、私はかまわず熱心に自分のアイデアを話し始めました。
その説明に博士は、誇大妄想狂ではないかと、当初いぶかしげな様子をしていましたが、次第に耳を傾けていってくれたのです。
そして最後に、ネゴや交渉のようなものは嫌なので、私はこう付け加えました。
“もしも協力していただくとすると、部品代とかいろいろな費用もかかり、また貴重な時間も割いていただくことにもなります。1日にいくらになるか、その金額は先生が自分で決めてください。先生がほしい金額を払います”と言うと、なんちゅーことを言う学生だという顔で見ていました。そこですかさず言いました。
“ただし1つだけ条件があります。見てのとおり、今、僕には金がありません。しかしうまくいって、試作機が完成したら、僕が日本に帰り、売り込んで契約金を持って帰ります。そのときには、さかのぼってこれまでにかかった費用全部も含めた報酬をお支払いします。
ですから、うまくいったら申告どおり満額回答の成功報酬です。しかしうまくいかなかったら先生はタダ働きになります。そういう条件でどうでしょうか? そのときのためにノートに何時間、いくらかかったか、つけておいていただけませんか。ただしチームのボスは僕です”と。
すると、先生は笑い出しました。えらく鼻柱の強い若僧だが、面白い奴だと思われたのでしょうか、そして、わけのわからん話だけど、面白そうなアイデアだからやってみるか、ということになったのです。
それからは、博士がメンバーだと言うと、あとのメンバー候補の専門家たちは、私の思惑通り、次々と自然にチームに参加してくれたのです 】と。
どうですか、博士が最後に笑い出したとき、説得が成功した瞬間だったのではないでしょうか。普通だったら、名だたる博士に対して失礼な依頼だとして、すぐに追い返されてしまうはずだからです。
成功報酬という申し出。なかなか思いつかない発想です。さらに、もくろみ通り、博士を説得したあとは、それが無言の信用証書ともなって、残りの専門家たちを説得するほどのこともなく、彼らは自然とチームメンバーになってくれたわけです。
氏はあとで、チームメンバーと翻訳機のアイデアについて、こんなことを言っています。
【 チームのメンバーは、私に毎日、“ヘイ!ボス、今日は何をすればいいのか”と尋ねたりしました。私もできる限りの時間を割いて開発に集中した。
でも、私が唯一関心を向けたのは「使用者の視点」だった。私自身、英語の実力が不足していた。 また、辞書だけでは正確な英語の発音が分からなかった。こうした問題点を発明と連結させたのが、まさに翻訳機のアイデアだったわけです。 それだけに「技術的にどれほど優れているか」ではなく、「どれほど便利か」に焦点を合わせたのです 】と。
マーケティングの原則、つまりユーザーの視点に最大のポイントを置くところなどは、やはり商売をしていた父親の後ろ姿を幼少期から見続けてきた、氏ならではのことだと思われます。
だから博士もこのユーザーの視点に立った依頼内容であることを見て取って、「彼が大学3年生のとき、私のオフィスにやってきた。彼のアイディアは日本語をタイプしたら、英語に翻訳され、その発音もわかるというもの。
しかし、そのようなアイディアはごくありふれたものだった。だが、彼が他の発明者と違うのは、発明を商品化するだけでなく、その商品をいかに売るかまでを考えていたことだ」と言っていた、とのことからもわかります。
こうして名だたる専門家集団の英知を集めて、遂に1977年の特許取得に継ぎ、翌年、試作品を完成させます。しかしその売り込みとなると、営業の常、すんなりといくはずがありません。ところが、これまた見事な展開を見せるのです。氏は語ります。
【 1978年、ついに試作機完成。そしてこの年の夏休みを利用して、日本への売り込みのために帰国しました。あらかじめアメリカから、ソニーや松下電器など、十数社の名だたる企業に手紙を出しておいたのですが、実際、訪問をするとなかなかうまくいきません。
でも、本命は当初からシャープでした。電卓を日本で最初に開発したところで、電卓に強い他社があっても、他はスピーチシンセサイザーまで作れる総合力を持ちあわせていないだろう、との判断からです。その狙いを定めて訪ねたのがシャープの産業機器事業部でした。
ところが、そこの担当部長からもあっさりと断わられてしまったのです。本命と考えていたシャープがダメなら、すべてが無になるということです。だから、どうしてもここで諦めるわけにはいかなかったのです。
そこで一計を案じ、大阪梅田駅近くの公衆電話から弁理士協会に電話をかけ、シャープに強い特許事務所を調べたのです。すると元シャープの電卓事業部で特許担当だった弁理士がいることがわかり、早速その事務所を訪ねました。
そこで私の発明が特許に値することを確認すると同時に、またシャープのキーマンが、浅田副本部長と電卓の神様・佐々木正専務の2人だとわかりました。そしてその弁理士さんに事情を話し“そのお2人に私に会ってみたらどうかと、どうぞ電話で話してくれませんか”と、お願いしたのです。
そのとき運よく在席中だった浅田氏に、弁理士さんは“面白そうな機械だから、会うだけ会ってみてはどうでしょうか”と、親切に電話してくれたのです。
さらに私が直接、電話口の浅田氏に、“私はあと3日でアメリカに帰らなくてはなりません。明日にでも会ってもらえませんでしょうか”と単刀直入、正直に話したところ、次の朝、時間をあけてもらうことができたのです。
翌朝、まず本社事業部の応接室で、浅田氏に試作機のデモを見てもらい、次に話が通っていた佐々木専務に見てもらうため、中央研究所の所長でもあった氏を訪ねたのです。若僧の私です。礼をつくすため、そのときは父を伴いました。
その結果、“検討してみよう”ということになったのですが、滞在時間も迫っていたことから、失礼とは思いながら率直にお尋ねしたのです。
“それはあとで詳細を詰めるという意味で、基本的には契約するという方向でおっしゃっているのでしょうか、それとも、遠まわしにお断りするということなのでしょうか” と。専務はしばし考えておられましたが、“よろしい。それでは契約の方向で話を進めていきましょう。そのかわり他社との話は全部断って下さい”ということになったのです。
この契約はのちの追加開発費用や特許料なども全部含めて、1億円7000万円ほどになりました。生れて初めて稼いだ金でした。その中からプロジェクトメンバーに成功報酬を払い、またそれを元手に、会社<ユニソン・ワールド>を設立し、学生経営者となりました。1979年2月、21歳のときです 】と。
まだ学生の身。そんな青年が事情もまだよくわからない日本で売り込みをするのです。案の定、次々とつれない返事に遭い、その中で本命と考えていたシャープからまでも、当初、断られてしまった氏ですが、ここでも、なかなか思いつかない「特許事務所から順に」という手口で突破口を開いたわけです。
未知の世界で、特許という観点からシャープの意志決定者・キーマンにたどり着く方法を考えたというわけです。この発想は、そう簡単に思いつかない手口です。
特許→特許事務所→弁理士協会と、逆算していき、そしてここでもまた、電話帳を活用しています。
あきらめない、そして考える、さらに最後までよく詰めるという氏の資質がよく現れている場面です。
考えた手口がうまくいって、相手に話が通じた。そしてうまく聞いてもらった。そのあと相手が検討してみると言った時点で、まずはめでたしとして、その場をあとにしまうところを、氏は契約かどうかの最後の念押しをまで、やわらかな言葉で確認している、そこが特に注目すべき点です。
営業関係にある方たちには、次にコメントする内容も併せて、参考にしていただけるのではないでしょうか。
モーゼー博士も“試作品はまだ世に出せるレベルではなかった。それを売り込むとは!”と、驚きを隠せなかったそうで、また、同じように佐々木専務も、“そのときには、まだ商品という代物ではなかった”と、同じような言葉を残しています。
それでも売り込みを成功させてしまう孫氏には、アプローチする際に、相手を魅了、あるいは射止めてしまう凄みのようなオーラを発しているからだということが、以下のことからもわかります。
このシャープ売り込み前にアプローチしたのは松下電器でしたが、そのとき立ち会ったのが、当時、日本のビル・ゲイツとも言われたアスキーの創立者・西和彦氏で、彼はこんな言葉を残しています。
“孫さんが売り込んでいる最中、まだ私は学生でしたが、松下電器の人から「西君、本当にすごいかどうか見てくれないか」と頼まれて立ち会った。孫さんは険しい顔をして座っていた。変なことをいったら殺すぞという感じだった。僕は「なかなかすごいけど、高かったらだめやな」という話をしたことを覚えている。
またそのとき、孫さんに「名刺を欲しい」といったら「名刺はまだないんや」といわれ、名刺がなくてよくビジネスができるものだと思ったことも覚えている”と。
アメリカのビジネス界では、名刺というものをあまり使用しないことから、名刺なるものを持ち合わせていなかったことはわかります。
しかし当時、飛ぶ鳥をも落とす勢いだった西氏でさえも恐怖感をいだいたという、その「真剣勝負に臨む青年の覇気や熱気」が伝わってくる話です。
一方、佐々木氏もさらにこんな印象を語っています。
“孫くんは風呂敷に包んだ装置を大事そうに抱えていました。それを私の目の前で広げて、是非商品化したいと、説明に一生懸命だった。試作機だったが、そこで使われている技術は将来シャープの商品に応用できるかもしれないと感じながら聞いていた。
しかし、未だに思い出すのは彼の目ですよね。今では先を見ようとする目になっていますが、そのときは人の心を見抜こう見抜こうとする目だった。
だからこの人はやるぞ、と直感的に思ったんですね。それに当時は学生だから、やっぱり活気に溢れていた” と。
この孫氏が発する覇気や熱気に溢れる独特のオーラーによって、相手が次々と射止められていく様は、以降、随所で見る事ができますので、順次ご紹介してまいりますが、ここで見た説得力や人の力を借りて何か大きなことをするという手法は、前号で見た森田塾の館長を参らせてしまった孫少年の説得力や、さらには中学の教師をその塾の講師役に迎え、自分で塾の経営を始めようとした少年時代のやり方に、その片鱗が伺えるということです。
この日本での音声翻訳機を売り込む滞在時間をも無駄にしないで、別の商機も捉えてしまう、これまた凄い商才と、そのときに発揮される説得の仕方に、またまた感嘆してしまう話があります。
それもまた大いに参考にしていただけますので、次号で詳しく見ていくことにします。
(連載・第七回完 以下次回につづく)
執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)
- 岐阜県高山市出身
- 早稲田大学理工学部応用物理学科卒
- 元:米IBM ビジネス エグゼクティブ
- 現:(株)ニュービジネスコンサルタント社長
- 前:日本IBM GBS 顧問
- 前:東北芸術工科大学 大学院客員教授
- 現:(株)アープ 最高顧問
- 講演・セミナー・研修・各種会合に(スライドとビデオ使用)
コンピューター分析が明かすリクエストの多い人気演題例
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- 不況や国際競争力にも強い企業になるには。その秘密が満載の中小企業の事例がいっぱい
- 成功する人・しない人を分けるもの、分けるとき。
- もったいない、あなたの脳はもっと活躍できる!
- こうすれば、あなたもその道の第一人者になれる!
- 求められるリーダーや経営者の資質。
- 栄枯盛衰はなぜ起こる。名家 会社 国家衰亡のきっかけ。
- 人生1回きり。あなたが一層輝くために。
テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)
出版
- 1988年 『企業進化論』 (日刊工業新聞社刊)ベストセラー 9ヵ月連続ベスト10入り
- 1989年 『続・企業進化論』 (日刊工業新聞社刊) ベストセラー 6ヵ月連続ベスト10入り
- 2009年 『成功者の地頭力パズル・あなたはビルゲイツの試験に受かるか』 (日経BP社)(2020年の大学入試改革に一石を投じる)
連載
- 1989年~2009年『企業繁栄・徒然草』
(CSK/SEGAの全国株主誌) - 1996年~2003年『すべてが師』(日本IBMのホームページ)
- 2005年~2016年『あなたはビル・ゲイツの試験に受かるか』(Web あーぷ社)
- 2017年~進行中『ソフトバンク 孫正義 物語』(Web あーぷ社)
新聞、雑誌インタビュー 多数
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