その4 12歳の少年に見る商才の片鱗
孫氏の今日のビジネス展開に欠かせない資質や商才の片鱗が、その幼少や少年時代の随所に伺えることから、前回は、氏の「リーダー論と経営論」に対するお伽噺・「桃太郎」の話を紹介しました。
今回も同様な話を進めますので、皆さんの日常生活やビジネスの中にも活かせるようなものを掴んでいってもらえればと思います。
では当連載第二回目でお話した内容、「日本は世界で2番目のGDPの国なのに、先進国の中でインターネットは世界一遅い。世界一料金が高い。ここは一つ、日本のインターネット業界全部のために、日本のインターネットユーザー全部のために、この高い高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一の高速にしてやろう」に関連して、日本初のブロードバンドのインターネットサービス、ヤフーBBを立ち上げたときの話をいたします。
ちなみにダイヤルアップ接続で当時、アナログ電話回線で56kbps、NTTがやろうとしていたISDN回線でも64kbpsという速度だったのが、ADSLなどのブロードバンド接続では1500~10000kbpsという桁違いの通信速度であり、しかも料金はNTTの1/8という破格の内容でした。
そのときの決意を、氏は次のように語っています。
【 未知の分野に新規投資する場合、小さく始めるのか、それとも大胆にいくのか。 10人に9 人は「小さく始める」と答えると思う。 しかし 日本最大のIT企業、NTTの圧力を乗り越えるためには、大きな勝負に出なければならない。
政府政策も、ネットワークもまだ未熟で、経験はなく、市場もまだ活発でない。 「それならなおさら慎重にやるべきだ」という声が出るかもしれない。
しかし私の考えは違った。世のため人のため志高く、孫正義でなければ、ソフトバンクでなければできないことをやろうと。
当面の市場は小さいかもしれないが、すぐに未来産業の核心インフラになるはずである。進入障壁が高いということは、それだけライバルも少ないということであり、 圧倒的な攻勢で市場を先行獲得していけばいい。
デジタル情報革命を起こすという高い志を貫くためにも、ここで勝負に出ることにした。2000年の夏のことだった。
しかし資金も知識も、持つものは何もない状態だった。特にITバブルの崩壊でソフトバンクの株価が1/100にも暴落した時期であり、何よりも必要な資金がまったくなかった。
融資を受けたかったが、銀行は相手にしてくれなかった。 増資もうまくいかなかった。 私は持っているものを売ることにした。米ヤフー本社の株も売却し、戦略事業と考えてきたものまでも手放した。
ヤフーBBを生かすことが、私の夢見るデジタル情報革命に大きく近づく方法だと信じたからだ。
ところが資産売却過程で私は予期しなかった壁にぶつかった。当社最高財務責任者で、1990年代初めから私と多くの仕事を一緒にしてきた‘同志’の北尾氏と激しく対立したのである。
その未来が不確実ともいえる超高速インターネットへ集中投資することは、会社の財務状態を深刻な状況に追い込む危険が大きい、ということへの反対だった。財務の総責任者の立場からすれば当然かもしれない。
しかしここで事を起こさなければ、日本の通信事業はいつまでたっても世界の後塵を拝するだけである。北尾氏にはソフトバンク本社の一部を分離して独立してもらい、すぐに富士銀行副社長で引退した65歳の笠井氏を招聘した。
こうした結果、短期間に事態を収拾することができた。
事業する者にとって財務責任者の意見は何よりも重要である。しかしお金の計算だけを前面に出していれば、飛躍のための革新と冒険ができなくなる。
北尾氏は卓越した人物だったが、私が彼の意見にずっと従っていたとすれば、今日のソフトバンクはなかっただろう。
判断をして責任を持って未来を切り開くのは、結局は自分の役割なのである 】と。
過去の買収などで重要な補佐役を演じてくれていた財務総責任者を代えてまでして、ここでも志高く、未来に向かって邁進していく氏の姿がはっきりと見て取れます。
このように資金工面では、なんとか目途をつけたものの、はたして氏のもくろみ通りこのビジネスがうまくスタートできるのか。
そこで氏が打った手は、大勢の報道陣や金融アナリストを集めた前で、大々的にこのブロードバンドによるインターネットサービスを、次のように宣言することでした。
すぐに破産すると言われた新事業のヤフーBB
【2001年6月19日、ヤフーBBサービスの発表を行うホテルオークラの宴会場は、約1000人の記者と証券会社のアナリストであふれていた。私はピンクのシャツと白のズボンで堂々と舞台に上がった。そして宣言した。
「NTTのISDNより5 倍速い超高速インターネットをNTTの8 分の1 の料金、月990円でサービスします。初期設置費は無料、プロモーション期間中は家庭用モデムを無料で差し上げます」と。
場内は静まり返った。大変な宣言をしたが、拍手する人は一人もいなかった。私は構わず言った。
「みんな、私を狂っていると言います。ソフトバンクはすぐに破産する、と多くのアナリストは言います。しかし私は私なりの目で世の中を見ています。この事業は必ず成功します」と。
しかし、マスコミの反応は批判一色だった。また、世界的な金融機関であるモルガン・スタンレーなどは、ソフトバンクがいくら努力しても、少なくとも1億2000万ドルの営業損失は避けられない、とまで予想した 】と。
マスコミや金融機関のアナリストの予想はあくまで予想でしかありません。 ISDN回線を用いたダイヤルアップ式接続がインターネット接続の主流だった当時、ヤフーBBの高速かつ定額のADSLサービスを市場は大いに歓迎してくれるはずであり、世のため人のためには必ず成功させねばならないとして、孫氏は一気に攻勢に出るのです。
見たこともある皆さんも多いと思いますが、駅や街角で通りすがりの人に声をかけて、家庭用超高速インターネットのセットトップボックス、いわゆるADSLモデムを無償で配る販促です。
そのため、千葉・幕張メッセに数千人単位のアルバイトを集め、短期間の研修で販売員を育成。とにかく人の集まる場所に販売員を大量に派遣したのです。ピーク時は1日だけで全国に8500人を配置したこともあったようです。
加入申し込みから10日以内に開設という10営業日集中キャンペーンも行い、規模の経済と革新で市場と消費者に新鮮で圧倒的な衝撃を与えた結果、短期間で100万人以上の予約申込みがありました。
こうしてまずは一段落というところですが、しかし実際には予約者へのインターネット開通があって初めてビジネスに結びつくわけです。
ところが、一度に殺到した膨大な予約量に応えられるだけの準備まではしていなかったのです。この緊急事態を打開するため、氏はどうしたのか。以下、氏は語ります。
申込者の開通に取った行動
【2001年9月、ADSL事業開始の3ヶ月後の2001年末、これまでの実績をチェックする8時間の会議を行った。 私は絶望した。 サービスがうまく開通していた予約者は20 万人にすぎなかった。
私は会議の終わりに、”今後1年間はゴルフクラブを握らない “と宣言したものだから、出席者は皆、驚いた。
知る人はみんな知っているが、私は大のゴルフ好き。自宅の地下に世界10大ゴルフ場のシミュレーションプログラムを入れた個人練習室まで設置したほどで、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツはその練習室を見て気に入り、シアトルの自宅に同じ施設を入れたくらいで、会議のあと、私は秘書に今後1年間は誰ともゴルフの日程を入れないでほしい、また明日から私の執務室はヤフーBB推進チームがある4階の会議室になる、と伝えた。
翌日から私は本当に4階の小さな会議室で執務を始めた。1日に15時間、19時間…。 私が誰かに「3時に会おう」と話せば、それは必ずしも午後3時とは限らなかった。午前3時にも会議を開き、必要ならいつでも夜を明かした。
事務所の中は職員の汗のにおい、数日間シャワーをしていない私の体臭が充満していた。
また私は急遽変えたその会議執務室を飛び出し、3日間で約100人の人材を集めた。 通信分野のエンジニアならば無条件につれてきた 】と。
月曜に1週間分の着替えを持って出社した幹部社員
氏はさらに、設備工事の遅れ、機材不足に対処するため、自ら建設本部長として陣頭指揮を執り、毎日のように午前2時まで働いていたといいます。
そして当時ソフトバンクで、建設業界向けのEC(電子商取引)サイトの立ち上げを進めていた今井氏が孫氏に呼び出され、そこで工事の工程をアドバイスすると、「そうだ、お前が建設本部長をやれ」となりました。
この今井氏は2000年に大手建設会社から孫氏に引き抜かれた転職組で、以降、毎日午前2時になると今井氏の元に氏がやって来て、工事進捗を確認して問題点を聞き、最後に「これを明日の朝までに頼むよ」と言い残して帰っていく。
この宿題を片付けるため、以降、今井氏はさらに1~2時間、作業を続ける日々が始まるのでした。
そこで次の日は午前8時半に朝礼が始まるため、帰宅できないどころか、睡眠時間もろくに取れず、だから月曜日に1週間分の着替えを持って出社し、日曜の夜だけ帰宅するという缶詰状態が続いたそうです。
ADSL事業参入時はどの幹部も同じで、連日、不眠不休という状態は榛氏もその1人でした。
孫社長自身はさらに多忙を極めるため、経営会議だけでは販売や技術、建設、財務部門における重要な意思決定に間に合わなくなる。そのため榛氏は孫社長のハイヤーに同乗し、車中で承諾を得たら下車。そこからタクシーを拾って会社に戻るという状況が続きました。
また、孫社長が関西出張の際は、東海道新幹線で新横浜まで同乗、議論が白熱した場合は小田原まで行く。ポスターを決めるときなどは承諾を得るための時間が取れないため、孫社長が戻って来る本社地下の駐車場に通じるエレベーターの中に、すべてのポスター案を貼り、乗っている間に指示を受けたと言います。
ブロードバンドによるインターネットサービス開始時期は、このように凄まじいばかり働きぶりでしたが、世ため人のためと高い志を立て、氏をはじめとしたスタッフの精根を込めた奮闘ぶりが伺えます。
さて、以上見てきた中で、孫氏の資質なり商才なりの片鱗が、氏の幼少や少年時代の一体どこに伺えるのか。それが、はっきりわかる部分が、孫氏の幼少期を語る次の言葉の中に見てとれます。
【12 歳の時のこと。 その頃、私の家族は極貧生活から抜け出し、かなり落ち着くようになっていた。 親が苦労を惜しまず働いたおかげだった。
父はいろいろな商売に手をつけたが、ある日突然、小さな喫茶店をオープンすることにした。しかし幼い私の目には勝算がないように見えた。
というのも駅から遠いうえ、繁華街でもなかったからだ。 だからコーヒーの原料業者までが供給を避けた。 商売を始めることさえできなくなるような状態だった。
そこで私が知恵をしぼった。父に「無料クーポンを駅前で配ろう」と言った。 父は当然、「とんでもないことを言うな」と言った。 しかし私の意志も強かった。
結局、1000枚を刷って配った。 コーヒー供給業者を招待した日、そのおかげで喫茶店は大賑わいだった。 それからというもの、業者はとても安く、良い決裁条件でコーヒーを供給し始めた。
初期の費用は高くなったが、すぐに投資金をすべて回収した。 店はしだいに繁盛し、数年後にはかなりの高値で売却した 】と。
いかがでしょうか。ここにわずか12歳、小学6年生にして少年の資質や商才の片鱗が、いくつか見てとれます。もうおわかりのように、前述のADSLモデムの無償販促の原型が、このコーヒー無料クープン券の街頭配布に伺えます。
商売で成功してきた百戦錬磨の父親でさえも考えもしなかったクーポン券の発想です。1000人分の無料クーポン費用といえば、小さな喫茶店にとってはたいへんな出費額になるはずで、当然、当初は相手にもしてくれなかった父親でした。
しかし、そこを説得して実行させているところなどが、なかなかできないということです。
また、“勝算がないように見えた”との言葉の裏には、「駅から遠い云々…」の立地条件を見る目とその市場の把握があり、そしてお客をはじめコーヒーの原料供給に否定的な業者の心までをもつかんで、すぐに投資金の回収を成し遂げています。
さらに、のちに高値でお店を売却したとまで言っていますから、まさに商才そのものがここに見て取れるのです。
この投資という点では、この後、さらに大きなスケールとなって発揮されるわけですが、以下順次、お伝えしていきます。
執筆者 梶谷通稔
(かじたに みちとし)
- 岐阜県高山市出身
- 早稲田大学理工学部応用物理学科卒
- 元:米IBM ビジネス エグゼクティブ
- 現:(株)ニュービジネスコンサルタント社長
- 前:日本IBM GBS 顧問
- 前:東北芸術工科大学 大学院客員教授
- 現:(株)アープ 最高顧問
- 講演・セミナー・研修・各種会合に(スライドとビデオ使用)
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- 栄枯盛衰はなぜ起こる。名家 会社 国家衰亡のきっかけ。
- 人生1回きり。あなたが一層輝くために。
テレビ出演と取材(NHKクローズアップ現代、フジテレビ、テレビ朝日、スカパー)
出版
- 1988年 『企業進化論』 (日刊工業新聞社刊)ベストセラー 9ヵ月連続ベスト10入り
- 1989年 『続・企業進化論』 (日刊工業新聞社刊) ベストセラー 6ヵ月連続ベスト10入り
- 2009年 『成功者の地頭力パズル・あなたはビルゲイツの試験に受かるか』 (日経BP社)(2020年の大学入試改革に一石を投じる)
連載
- 1989年~2009年『企業繁栄・徒然草』
(CSK/SEGAの全国株主誌) - 1996年~2003年『すべてが師』(日本IBMのホームページ)
- 2005年~2016年『あなたはビル・ゲイツの試験に受かるか』(Web あーぷ社)
- 2017年~進行中『ソフトバンク 孫正義 物語』(Web あーぷ社)
新聞、雑誌インタビュー 多数
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